suicide bambi

パンクロックからお笑いまで、気になることを気まぐれに。

大脱走しようぜ

いじめのニュースが問題になっている。


元いじめられっ子の人のメッセージを見るたび、胸がギュッとなる。見て見ぬふりも含めたら、多くの人は加害者側だったんじゃないだろうか。自分はたぶん、元いじめっ子の方だった。

男兄弟がいたせいか、小学校の頃は気が強かった。気の弱い子をからかっていた…つもりだったけれど、相手が深刻に思い悩んでいたら、それは紛れもないいじめだ。

女子と男子ではまた違うのかもしれない。男子は直接的で暴力的、女子は間接的で口撃的。さすがに手を上げたことはなかったけれど、物を隠す程度のことはしたと思う。

中学校の頃は、女子によくある集団意識を存分に抱えていた。なんかあの子嫌な感じ、みんなで無視しようという空気。仲間はずれにされることを回避するため、自分を押し殺して周りに合わせて過ごした3年間…何ひとつ面白いことなんてなくて、死ぬほど学校嫌いになった。

不思議なのは、クラス替えで別れた後に仲間はずれになっていた子を見かけると、たいていの子は明るくなっていて生き生きとしていたこと。逆に自分はどんどん暗くなっていって、死んだ気持ちになっていったこと。

人は環境や状況で一変する。
いじめっ子、いじめられっ子も紙一重。
明るいも暗いも背中合わせ。

もし、相手が未だに嫌な思いを抱えていて、トラウマとして残っていて「許せない、あいつ!」と思われてるんだとしたら、ちゃんと謝ろうと思う。2~3発くらいなら、殴られる覚悟はできている。

自分は根っからの悪党になれるほどの賢さなんてなくて、思いやりが欠如していた、あの頃から人付き合いが下手くそな奴だったのだろう。仲良くなりたくてちょっかいを出す、不器用な子供のごとく。距離感の取り方がわからなくて拒絶してしまう、人見知りのごとく。

ひとつだけ言いたいのは、当時嫌な思いをさせてしまっただろう相手が、昔のことなんて全然覚えてないくらい今幸せであってほしいと心から思うし。当時イキがっていた自分は、今さらそれを気に病むくらい落ち込んでいて、ちっとも幸せな気持ちになれていないということ。

世の中それほど上手くできていないので、いじめっ子に罰が下るなんてことはほとんどない。故に、今 自分が幸せじゃないのは全然関係のないことなんだけど、結果 ざまあみろという感じになっているならそれでいい。

おそらくいじめていた人のほとんどは、いじめていたことを忘れている。いじめていた自覚さえないかもしれない。いじめられた側は今も忘れられずにいる。自分はその後の人生で、人付き合いに関して凄く悩んで傷ついてきたので「あの時、酷いことしたな…」と振り返って、未だに思い出すのだと思う。

元ヤンキーだけど今は更生して立派に生きてます、みたいな話が好きじゃない。それは、彼らに傷つけられたり、嫌な思いをさせられてきた人に対しては何の償いにもなっていないし、過去のことが浄化されたかのように思い込んでいるから。

元いじめっ子もそれに近く、何もなかったかのように立派なふりをして生きている。社会の中でも同じように仲間はずれを作り、未だに誰かを傷つけているかもしれない。自覚なき元いじめっ子の加害者が社会にはたくさんいるのだろう。

今を生きる小中学生に言えることがあるとしたら…

「みんな仲良く」なんてたぶん無理。大人になっても無理。なんか嫌な人、気の合わない人とはなるべく距離を取るしかない。それでも付き合わざるを得ない状況の時は、表面上だけ付き合って、それは大人になるための訓練だと思うしかない。

友達の嫌いな人を、必ずしも自分が嫌いになる必要はない。みんなで無視する必要はない。仲間はずれを作って誰かの悪口を言うのは、仲良くなる手段のひとつだけど、その集団意識が今思うと一番くだらない。それよりも楽しい話題で仲良くなった方がいい。

本当に自分が好きなものを分かち合える人とは、そうそう出会えない。しかし誰かに合わせて触れる色んなものは、その後に繋がるから無駄じゃない。ネットがある時代に生まれたのなら、上手いことそれを利用してみるのもいい。

高校に行って思ったのは、学校なんて基本的にクソだ。クソの集まりだ。クソみたいなことを学んで、クソみたいなことで笑わなきゃいけない。進学・出世のエリートコースを目指しているわけじゃないのなら、物事を考える術や、処世術を学ぶ場として割り切るほかない。

学生のうちに学生時代の可能性に気づける人はほとんどいない。みんな大人になってから、あの頃こうしていれば…と思って後悔する。気づけたらラッキー、ほとんどの人はそれぞれに悩んで失敗するのが常。

死ぬくらいなら思い切って学校をサボって、学校以外のことを考えたり、色々やってみるのもいい。心配してもらえたら、大人と話し合ってみるのも悪くないかもしれない。

死ぬくらいならドロップアウトするのも有りだし、クソだなと思って死んだように過ごすのも、大人になればそれなりに思い出。世渡り下手な人ほど社会に出て大変な思いをするので、資格的な感覚でギリギリ卒業はしておいた方がいい。

現実は絶望に満ちているけど、未来はどうなるかわからない。
NO FUTURE!と叫びながら、夢見続けるのが人間だ。
絶望するのはまだ早い。泥沼に咲く花を見て思う。

「未来はいつも面白い」というのは爆笑問題の太田さんの言葉。高校時代の太田さんは友達が一人もいなくて、でも皆勤賞だった。机の上に学校に行かなきゃいけない日数分の線を書いて、それを消していく…みたいなことを言っていたのを聞いて、自分も机の上に線を書いたことがある。何とか休む手立てを考え、何とか乗り切る方法を模索した。

死ぬほど学校が嫌いだった。朝起きたら粉々に砕け散っていればいいのに、と思っていた。集団行動、愛想笑い、地獄みたいな行事、何の役に立つのかわからない勉強。暗雲たる人間関係の日々と、世界に対する疑心暗鬼でいっぱいだった。中二病の塊というか、そういう思考回路なんだからしょうがない。

何度か学校をサボってみたこともあったけれど、解決はしなかった。でも息継ぎにはなった。制服のまま一人で灰色の空も見たし、友達と夢みたいな青空も見た。

まあこんなブログ、中高生は見てないだろうけれど…

少年少女、とりあえず生きろ。
死ぬのなんて後回し、全力で楽しいことを探すんだ。
大人はもっと大変だけど、大人はもっと楽しいぞ。
大人は楽しいことを子供に山ほど隠しているぞ。
それを知らずして死ぬのはもったいないぞ。

死ぬな、とはそう簡単に言えない。死が唯一の逃げ道だって気持ちもわかるから。まともに生きている人に何を言われても、その人が救ってくれるわけでもなし。1人じゃないなんて言われても、それを聞いている自分は1人だし。偽善で救われる場合もあるけれど、偽善で落ち込むこともある。

とりあえず生きろ。息継ぎをしろ。
とりあえず逃げろ。生きるためなら迷わず逃げろ。
逃げることをクソだと言うのなら、
逃げることを笑う奴もクソだ。
どいつもこいつもクソなんだから安心していい。

泳げない人を水の中に突き飛ばしたら、嫌でも泳げるようになるだろう。という理屈を捏ねて、突き飛ばそうとする奴がいる。それで泳げるようになる人もいる。だけど、本当に溺れて死んでいく人もいる。

やり方は人それぞれ。戦うことで道が開ける人もいれば、耐えることで強くなれる人もいれば、逃げることで生き延びられる人もいる。答えは一つじゃない。道は一つじゃない。絶対的に自分が正しいかのような考え方を押し付ける大人を疑え。

立派な大人からのメッセージは溢れている。色んなことから逃げてきた自分だから言えることもあるかもしれない。逃げてもちゃんと大人になれる。ちゃんとかどうかは怪しいけれど、ダメなりにも何とか生きられる。

この世界にはまだ優しさが残っている。自分みたいな人間が生きられていること自体がその証明だ。だから、きっとまだ生きられる。

全ての大人に絶望するな。
クソみたいな大人もいるが、希望をくれる大人もいる。

希望を与える大人を目指して、絶望的な日々を過ごして、希望を与える大人になれるのはほんの一握り…かもしれない。それでも希望にしがみついて、絶望しながら大人を生きる。

それはカッコ悪いかもしれないけれど、カッコ悪く死ぬのよりずっといい。カッコ良く生きられないなら、カッコ良く死にたいと思ったこともあったけど、カッコ良く生きられない奴に、カッコ良く死ぬのはどうやら無理っぽい。だとしたら死ぬまで、カッコ良く生きることを目指すしかない。

結局、子供の頃の懺悔から、学校嫌いのトラウマが溢れてきて、途中から「絶望」と「クソ」が言いたいだけの文章になってしまったけれど、時々無性に書きたくなるこれが、ブログを始めた本来の理由な気がする。

いとも簡単に死にたくなる毎日が
楽しくてまだ死ねない。

ダメな大人からのメッセージはこうだ。
「Let's Go Great Escape!」
大脱走しようぜ。




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