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【V.I.P. ― エレファントカシマシ ―】17/3/26…デビュー30周年 インタビュー

2017年3月26日 スペースシャワーTV
「V.I.P. ― エレファントカシマシ ―」

デビュー30周年を迎える
エレファントカシマシの歴史を振り返るインタビュー




宮本 「『ファイティングマン』なんか作った時っていうのはまあ18ぐらいですよ。そうすっとそん時なんかこう、生まれてない人もいるんですね。そういう人とかも、いて。あとまあその同じように、初期から、こう応援してくれてる人もいて。色んな人いて、だから凄くあの、温かい、嬉しさを、しみじみ、感じていますし。しっかり、やろうっていうふうにやっぱ、思って。それを恥ず、恥ずかしがらないようにしています」


■ エレファントカシマシ結成

宮本 「そうですね、そのなんかこう…エレファントカシマシっていう名前で、トミと石くんと、その~ベースのようちゃんと、ヒトシとね、あとキーボードの鈴木ヨウコ…でやってた」
石森 「中1の…終わりぐらいですかね」
冨永 「はい」
石森 「はい。その近所にある楽器屋さんに、僕はギタースクール通って、トミはドラムスクール行ってて。スタジオ入ってみようかっていう。で、入ってました。はい」
宮本 「それで、歌はいなかったですか?」
石森 「いなかったです」
宮本 「何やってたの?」
石森 「もう何…いやもう」
宮本 「あんたに聞いてないよ」
石森 「ああ、すいません。ああ、ごめんなさい」
(笑)
宮本 (笑って冨永に促し)
冨永 「ほんと、あの~もう曲っていうか、ただ音出したい」
宮本 「荒井楽器で」
冨永 「荒井楽器で」

宮本 「あの~会社員なんですよ、父親がね。だから、会社員にならなきゃいけないし、中学生ですから。そうすっとその音楽活動っていうのにそれほど興味…まあ流行ってたんですね、RCサクセションとか。そいでまあみんなトミの兄貴がやっぱストーンズとかビートルズやっぱ詳しくてね、『Jumpin' Jack Flash』とか。その~なんだっけ?あの、えーと『Honky Tonk Women』とかね、ストーンズのそういう曲を。まあテープでカセットテープで当時ね、聴かせてもらったりとかして。そういうね、こう喚起…こう まあ教育というか、みんながバンドっていう。ベースって何か知らなかったし、ギターが何かも知らなかったし。だからその~それほど興味なかったんじゃないですか、私。そうでもない?反応、無反応だったでしょ?」
石森 「そうですね。あの、ワァ~って喜んでるわけではないと思います」
宮本 「だからトミに聞いてんだよ」
石森 「ああっ、すいません。すいません」
(笑)
宮本 「まあいいんだけど、いいのいいの、分かってる、喜んでなかった。俺んちに来たんだよな、17の409に」
冨永 「はははは」


■ 1988年 メジャーデビュー

宮本 「エレファントカシマシは鳴り物入りでしたから、我々のデビューっていうのは。その渋公 電気つけっぱなし、それって、いきなりですから。ほとんどライブなんかやってないのに、いきなりほぼ満員になっちゃった、渋公が。それを電気つけっぱなしでやって。それでその、『ファイティングマン』見たらやっぱ緊張感が高くて非常に、今の『ファイティングマン』とは違ってヒリヒリしてて。あれ初回盤に入るのはちょっと、嬉しいですよね。どうでした?感想」
冨永 「もうやってることもやっぱり違うから」
宮本 「これもんですぐ脱ぐからね。(冨永は)必ず上半身裸で」
冨永 「ははは」
宮本 「なぜか着てくるんですよ。ドラムの前になると服脱いでこうやって(ドラム叩いて)」
(笑)
宮本 「こうね。あれでもカッコいいよね、あれね。 やっぱ今の『ファイティングマン』とね、その、当時の『ファイティングマン』の違いっていうのがこう、ビジュアルでこうわかるっていうのも凄く、僕なんかは凄く面白かったですけどね。はい、かなり」


■ 合宿レコーディングの思い出

宮本 「あの~合宿ん時は面白かったな。朝ほらあれ…あの…山中湖で焚き火したのあれ。明け方行って寒くて。覚えてる? 翌日の1時から練習するっていう所でね、明け方の1時に着いちゃって」
(笑)
宮本 「それであの、寒いんですよ、冬 12月で。それで零下なんか7℃か8℃はあると、もっと行ってんじゃないかなぁ。そこでせいちゃんがほらあの、火を起こすのが上手いから。お風呂屋さんだから。焚き火のあれを持ってきて、湖畔で焚き火して、何やってたんですかね、10時間もねえ」


■ 日本武道館 三〇〇〇席

宮本 「コマ劇場、新宿のコマ劇場でほんとはやりたかったんですよ。ところが新宿のコマ劇場が、なんかそういう演歌の、1ヶ月借りきっちゃってて。苦肉の策で、武道館 3000席っていうのを、1万人 入んないけど、まあ3000人っていうふうにわざと言って、やると面白いんじゃないかってその、あの、プロデューサーですよね。『ファイティングマン』作ってる、『星の砂』やってる、『デーデ』やってるって自分たちでやってる頃ってのは、お客さんが1人も集まりゃしませんよ、そんなもん。それで、デビューしたらそら、ストーンズや、RCや、ストリート・スライダーズのように、まあ非常にこう、ロックのね、ああいう、華やかな、照明の中で、スポットライトの中で、こうなんかオシャレに行くもんだと。 エレファントカシマシの彼らは、若い剥き出しの4人組だから、それは大人の評価ですよね。そういうそん中で、背景をわざと剥き出しにしてやるみたいな。まあ元々確かにそういう剥き出しの、とこはありますよ、若いから。でも、それをこう、僕らの意図とはやっぱりそこで、ボタンの掛け違いっていうのはそこでスタートしてるような気が、しますよね。良い悪いじゃなくてね」


■ エレファントカシマシの転換期

宮本 「『エレファントカシマシ5』ってアルバムの時に、僕はプロデューサーを入れたい…って話した時にその、事務所のアヤベさんがまあ、これは泣けるエピソードだけど。「宮本がプロデューサーなんだからプロデューサーなんかいらない」って、答えにも何にもなってないみたいな。そういう非常にその良い熱さを持った、あの~方だったんでね。この今のこの時点からそこを振り返ると、非常に素晴らしいエピソードなんだけど。当時こっちはもう、必死に何とかしたい所に、「君がプロデューサーで」って「うわぁ~どうしようかな、俺。ちょっと悩んじゃうな」みたいな、中での非常にこう、混沌とした中でね、はい、やってた。まあ『奴隷天国』である種、解決はしたんだけど 自分の中ではね」


■ エピック・ソニーとの契約終了、所属事務所の解散

宮本 「デビューした時すでに、えーと大学3年生だったもんですから。その…あの~だから、ライブツアー 実家の赤羽から、ツアーに出て、帰ってきて。また例えば名古屋でコンサートツアー中に、終わって、東京ってか、名古屋の翌日に卒業式あったりとかして。だから契約してる時、活動中にも学生だった。それで、それはまあ契約切れちゃって。まあ7年間か8年間ずっと同じ、えーとエピック・ソニーとその同じ事務所にいたのを、解散してしまって。同じスタッフでね、みんなやっぱ、エレファントカシマシに夢を持って、「よし、日本で、一番の売れるバンドにしようぜ」っていう所で。なかなかその~剥き出しのね、そういうものでやろうと、やってきたわけで、それがこう、解体してしまったんですね、全部 一回ね。 何しろあん時はあれですね、あの~レコーディング中にもうレコーディングやめよう つうんだよね、あの~エピックの人がさ。で それこう凄く音楽的なエピック時代っていうのは、実験を長く続けてる時期、時期で。それが、あの~ようやく自分の中で答えがはっきり!分かったんです、僕はその『奴隷天国』の時に。そこに持ってきてでも彼らはやっぱ事務所が、もう、レコード会社と契約切れちゃうんだよ…つって、それを、こっちのこの高揚感っていうか、この先の見えなさ加減、そのレコード会社の。俺はここまで来て、ようやくお前らが育ててここまで、来たのにもか…自慢話が長い?」
石森 「いえ」
冨永 「はははは」
宮本 「大丈夫?」
石森 (頷く)
宮本 「ほんとのことなんで自慢でもないんですよね。こう、こう来て、だからそのレコーディング中は「まあ待ってくださいよ」と。もう何しろ僕「このレコーディングだけはやらせてくれ」と。そん時は良かったんだけど、レコーディングが終わっちゃうとただの、人に戻っ、戻るじゃない。レコーディングやってると「俺はもうその、絶対 凄い歌をうたってる!」みたいに思ってるから。見つけてるし、方向性を。たぶん高揚感あるんだけど。終わっちゃうと、その辺 電車乗ってたらただのこう、痩せたさ、あんちゃんだから。「あれ おかしいな、給料も出ないし、困ったなぁ」みたいな。いう感じでしたね、僕はね。みんなバイト…してたしね、すでにその時からね。せいちゃんも結婚してたし」


■ メジャーを離れた浪人時代

宮本 「週に1回ぐらい会ってましたかね、だからね。練習もしたりとか。みんなバイトのままの扮装でね。「あ~」と思ったよ。頭にさ、タオルのハチマキ巻いて、タオルでハチマキ巻いて、赤羽駅の西口ん所で、待ち合わせるんだけどさ。そこで立ってるのはどう見てもミュージシャンには見えないからね、みんな、こうやってもう頭にね、タオル巻いてこうやって、「あ~疲れた」みたいなことになってわけよ」
冨永 「ははは」

宮本 「何のバイトしてたの?」
石森 「宅配寿司の、え~なんつうんすかね、宅配をしてました。はい」
宮本 「成治さん 何かやってたの?」
高緑 「あの~実家の手伝いを」
宮本 「風呂屋の」
高緑 (頷く)
宮本 「トミは?トミさんも実家だな」
冨永 「いや、夜働いてました」
宮本 「道路工事の」
冨永 「いやいや(笑)」
宮本 「違うの?」
冨永 「あっ、それは前、前ね」
宮本 「あっそう、違うのやってたの?何やってたの?」
冨永 「夜 掃除とかやってた」
宮本 「あっそう、そうか、病院のな。そこで「今日は俺は報告だよ」みたいな、あの~あそこの環七沿いのさ、デニーズかなんか行って、なんであそこまで歩いて行ったんですか?」
(笑)
宮本 「赤羽駅からわざわざあの環七沿いのデニーズまで歩いてった」

宮本 「たぶん音楽の、こうしようぜって話をするってよりは、「今日は、ビクターの誰々さんに会ってきたから」とかもう、なんかよくわかんないけどほら、中小企業の親父ですよ。「今日はこうだった」「今日はこうだった」「絶対 大丈夫だ」「絶対 売れる」つって」


■『悲しみの果て』が大ヒットを記録

宮本 「エレファントカシマシの、やっぱ間口を広げるじゃないけど、『奴隷天国』とその『待つ男』歌ってても、これはなかなかね、ヒットに繋がるとは思えんだろうと。そういう所でまあせっかく心が開かれた、こういう下北なんかで、再デビューだから。今までやってないことを、やりたい。『四月の風』は、みんなの前で、総論じゃないけど これからのね、それこそ『俺たちの明日』や、『ファイティングマン』のように、これからの自分たちの、なんかそういう、大きな哲学じゃないけど、想い、生きていくっていうことをこう歌ってると思う、その『四月の風』は。『悲しみの果て』はもうちょっと特定の、人を、単に慰めたくて作って。赤羽の部屋…に住んでて。それで、やっぱ人を、まあ 励ましたくて、作りました。で、何がどうってそれ発表しようとかって思って作った、作ってない。ただその、「部屋を飾ろう コーヒーを飲もう 花を飾ってくれよ いつもの部屋に」っていう所は、当時あの…ディレクターっていうか、その方に、会って、やっぱりこう、あの色々、曲を聴いてもらってたんですよ。そん時に、色々アドバイスをもらって、「部屋を飾ろう コーヒーを飲もう 花を飾ってくれよ いつもの部屋に」っていうふうに入れました。それはやっぱこう……ちょっと自分では背伸びした、フレーズなんだけど。懐かしいですね、はい。

で、僕はオアシスの、『Morning Glory』が当時出てて。ちょうど『悲しみの果て』の時に。しょっちゅう聴いてた『Morning Glory』。で、その「~~~~ロックンロール・バ~ンド♪」ってとこで必ず泣く。「ロックンロール・バ~ンド♪」ってあるじゃん、お兄さんが歌ってるほらあの歌。そこばっか聴いてたの。それと『悲しみの果て』の新しい音源を、しょっちゅう聴き比べて聴いてたんだけど。なんでこのオアシスはこんなにこう自由に奔放にやってて エレファントカシマシの、何か『悲しみの果て』にはなんか整理整頓されてるっていう、自分で…っていうふうに、ライブのね、イメージと、あまりにもその違いがあるんで苦しみましたけど。結果的にはそれがやっぱり、もちろん、正解だったわけで。つうかやるべきことだったわけで。わかりやすい、そういう、悩み方をしていましたね」


■ レベルアップした楽曲製作

宮本 「ほんとにあの時は嬉しくて、テレビの画面から、その『今宵の月のように』が、流れてきた時ね。それはやっぱりこう、僕はヒット曲を、ほんとに出したかったんです。で、まあ、ねえ、『奴隷天国』歌っててヒット曲出したいっていうと…あの~『男は行く』がシングルですからね。その、エピック時代のね、もどかしい時代のその、その5年を経て、ようやくそのひとつ、結実したっていう感じが、結果的にはしたんですよね。 技術ですよね、技術を、習得したんです。だから元々その歌に対する考え方は変わってないんだけど、例えば『ファイティングマン』のファーストアルバムの気合いの時、気合いがテーマの時は、それしかやりようがなかった。でも、だんだんだんだんその打ち込みっていうかその、リズムボックスを使ってレコーディングをクールにやるっていうことの方が実は、パワーが生まれるっていうことを『東京の空』で気づ…とか『奴隷天国』で気づいて。エレファントカシマシはいいバンドだっていう所とその、曲とそういう素晴らしいプロデューサーと、素晴らしいプレーヤーと、一緒にやってようやくこう一曲出来て。だからその歌の技術を、歌を聴かせるのは、何も叫んでるのが、もちろん伝わるもんじゃないし。そこの加減っていうものをちゃんと、こう曲として、ちゃんと、まあ当たり前のことですよね。パシッと決まると、バシッとこう、聴きやすくなるっていう。ことを、まあ、10何年かけて学んだってことだと思います。はい」


■ デジタルサウンドを導入

宮本 「あの~佐久間正英さんっていう、プロデューサーと出会って。で、バンドの精一杯の力で作った『明日に向かって走れ』ってアルバムがあって。そのあとやっぱ、やっぱり非常に、そのバンドでやりたいことを僕は…ひとつやっぱ到達しちゃったんですね、自分の中でね。『愛と夢』ってアルバムでは、佐久間さんとまあ半分以上の曲を確か打ち込みでやって。その次の『ガストロンジャー』っていう、曲に代表される『good morning』っていうアルバム。あれもほぼ、半分以上の曲を、もう8割ぐらいか、石くんと打ち込みで作って。それはまあ、そういう打ち込みも、リズムボックスも世の中には、とっくの昔に存在してたんだけど。まあ、近代との出会いと言いますか、まあその私のね、中でのそのアナログ、生活から、少しその、科学技術…を発見するみたいな(笑)そういう時代だったんじゃないですか、その『ガストロンジャー』。『コール アンド レスポンス』っていう曲はほとんどっていうか全部、打ち込みでやりまして。そういうこう模索ですよね。新しい、もの…を、見つける、旅に出るというか。はい」


■ 歌うこと

宮本 「まあ幸いね、僕はその、歌の、表現、まあそのほんとに好きなんです。母親がね、合唱団 幸い入れてくれたんで。歌う訓練も、3~4年けっこうちゃんとした訓練、NHKの合唱団してくれるんですよ。それをやっぱりちゃんとやって。で、その~歌が、好きだってことを、こう…染み込ませて、生きてきたんですね。そうすっと、それを今度は、いい形にしてまあバンドとのもちろん出会いも、まあそれぞれなんだけど、まあもちろん凄い、素敵なことだし、そういうこう新しいスタッフ、とかももちろんさ、あれなんだけど。まあ自分でこうやりたいことっていうのを、やっぱ探し続けてそれじゃないと今度は、みんなも支えようがないじゃないですか」


■ 2009年 SSTV「V.I.P. エレファントカシマシ」
(過去のインタビュー)

宮本 「まあ最大のエネルギー源は、僕も含めて思うことなんだけど。あの…歌だと思いますね。ミヤジの歌、まあミヤジも含めてなんだけど。なっ?」
メンバー(頷く)
宮本 「たぶん歌、歌が、ずっとあって。で それは僕は、僕ら、僕も含めて無自覚で。例えば絶叫する歌が、絶叫したっていいんだけど、絶叫しなくていい歌も絶叫してきた。それはなんか、なんか溢れる想いがそういうふうにさせちゃったんだけど。でもきっと、僕らが今回もし、さっきの成長っていうことがあるとしたら、その「歌」を、僕も含めてだけど、大事にしてやった方がいいんじゃないかみたいなとこがあって。取りも直さずその、激しい音の曲でも、わりとそういうバラードでも、やっぱ「歌」と、いうものをみんなで、あのやっぱひとつ、支えてるっていう所の、意識がでかいのかなっていう感じがする。その人っていうんじゃなく歌自体、っていうか。そうなんか僕もそれは最近思うようになって、少し…思うようになって」
― 歌がエレファントカシマシの絆?
宮本 「うーん。…の大きな、もののひとつであることは間違いないっていう感じはするんですけどねえ」


■ 新たな人間との出会い

宮本 「やっぱりね、いい曲っていうか、なかなかその、一人では、一人だけで生まれるってのはそれは、一生に何曲もないんですね。その『俺たちの明日』を、作る時の、ディレクターの方っていうのは非常にその、なんかそういう、プライドのある方で。「あとはエレファントカシマシで俺はヒット曲を出したい」っていう意思と、そのサポートっていうんですかね。歌謡バーなんてしょっちゅう連れてかれ…歌謡曲だけが流れてる、そういう、喫茶店っていうのかな。そういうとこにだから要するに感化させるために色んなことを僕に、引き連れ回して。東芝EMIから、首を切られてる40の、まあ僕はもちろん、音楽 自信は持ってるけど、端から見たらそういうバンドに、ヒット曲を出したい。しかもその役割としてそういうこう色々、サポート、渾身のサポートをしてくれる。それも嬉しそうに。だからそういう、出会いですよね。やっぱり40歳だから、30歳の、20歳、10歳、これから…行くって所も、両方こう立ってるっていう、そのままの心境、心境をやっぱり歌えたっていうのが、『俺たちの明日』良かったですね」


■ 冨永義之が慢性硬膜下血腫を発症

宮本 「この辺(頭部)になんかこんな縫い跡…まだあったんだっけ?あれって」
冨永 「あった」
宮本 「こうなんか凄いとこに縫い跡があんのよ。「じゃあ俺 煙草吸いたい、じゃあトミ 煙草吸いに行くか」元気そうだから。したら一緒に煙草吸ってたけど大丈夫だった?」
冨永 「大丈夫」
宮本 「今生きてるから大丈夫か(笑)」
冨永 「はははっ、何の問題もない」
宮本 「10年以上前の話だから、大丈夫だとは思うんですけども、お元気なんで」

宮本 「で、そのまあそういうレコーディング中から「頭痛い、頭痛い」って言うのよ。「なーんだよ、インフルエンザ うつすな」みたいな話になってて。「だからもう隔離」とかつって。「もうトミ来ないでいいから」つって、ミックスの時とかな」
冨永 (頷く)
宮本 「あの俺、もう、「俺がもうやるから」みたいなことにして、「もうトミいいから」つって。そしたらなんか入院しちゃって、3ヶ月。で、ライブの予定が決まってたの初めてそこでね、中年の自覚というか、病気になるんだっていうのを。で、それで契約も切れたと」


■ 下北沢での思い出

宮本 「で、そん時もね、そのSHELTERもそうだけど、Queとかでね、ライブやったりとかして。志はあるけれども、なかなかこう…一歩を踏み出す時に、そういうクリエーター、まあたぶん音楽だけじゃなくてそういう、その演劇とかね、小説家とかね、そういう人たちもこういう街、街ぐるみでそういう応援する街の雰囲気があって。そういう困った時に下北沢みたいにしてやっぱりこう下北でライブやったりとかして。なかなかやっぱりパッとしないっていうか、やっぱ契約も、もう、EMIね、今 合併しちゃったけどEMIの契約も、切れちゃうし。それでアルバムもやっぱりいいアルバム作ってんですよ、佐久間さんとね。でもそれはやっぱりすぐは届かない。で僕はよくその『巨人の星』の、あの花形満が、大リーグボールを打つんで…まあそれカッコいい例で大変恐縮なんだけど。よく自分の中でそうやって、鼓舞するんでね。大リーグボールを、鉄球で打っ…当たってこう、練習するんだけど、誰ももう、まあそんなわけわかんない話に。まあそれをよく『巨人の星』を思い出す。『巨人の星』の、思い出して、こないだ「思いこんだら試練の道を 行くが男のど根性」って言ってたら、グッときちゃって。「思いこんだら試練の道を 行くが男のど根性」凄くないですか? それを聴いた途端に、『花男』がそれに似てる。「ニタリニタリと策士ども」。あと「人生楽ありゃ苦もあるさ 涙のあとには虹も出る」だったと思うんだけど。「歩いてゆくんだしっかりと 自分の道を踏みしめて」っていうのと、「ニタリニタリと策士ども 転ばぬ先の杖のよう」「どうせやるならドンとやれ」ってその辺の影響を受けまくってるってことが判明したんです、改めて。『巨人の星』と『水戸黄門』が、心の支えだったんですよ」


■ 宮本が急性感音難聴を発症

宮本 「2週間丸々 左…聴こえなくなっちゃって。…まあ壊れるっていうか、こう死ぬっていうかね、そういうことはやっぱこう、感じましたね。こうやって無情っていうかね、聴こえなくなっちゃう…ったらヤダなっていうふうに、思うとやっぱ非常に不安でしたし。だから、日比谷の野音でね、そのあと、なんかの、あれに、アコギで、やった時はお客さんけっこう集まってくれて。それ一回バンドとしての、あれはちょっと音を…かなくなっちゃって。アコギでやったんです。したらそん時は凄い心の、通じ合った感じがして。やっぱり真っ直ぐの歌を、あの届けると、やっぱりそういうふうにみんなもなる、なるよね、きっと。『奴隷天国』の時はこうやって(直立不動で)見てたけど、やっぱり病気があって「あ~良かった」って言うとみんな笑ってるし。そういうことなんですよね。だからいい曲作るとみんなやっぱ喜ぶし。やっぱり20歳と50歳は全然違うからそれなりに、覚悟はいるとは思うけどね。これからはこう自分たちの、道筋っていうのはその、まあもちろん誰でもそうですけど」


■ 2014年 SSTV「PREMIUM INTERVIEW」
(過去のインタビュー)

宮本 「たくさん、こんなたくさんね、エレファントカシマシのコンサート、来て、さいたまスーパーアリーナに入ってる。その、それがまず、もの凄く興奮した。僕ら、僕も、僕らメンバーも興奮したし、さいたまスーパーアリーナは実際どうなんだろうと。1万人、ほら武道館が9000人弱だから、最高だから今まで。1万人行くといいなぁっていう、まさかね、その~実験でその1万 何千人以上っていうのってほんとに、あの自分でもビックリしたし。それが成功出来て、とっても嬉しかったですね。

自分が、まあ凄く元気になったってでかいんですよね。体調が万全だから、歌っていけるっていう所の気持ちを……健康に示せ、健康的に、みんなに示せるっていう自信をたぶん持ってるからだと思うけど。

気持ちが、色んなコンサートとか、そういうフェスとか、あと新曲を、作ってく過程でやっぱ自分もそうやって、まあ、得てさ。で、よし!ってやっぱ思えてるんだと思うんですね。ええ。だからこう、そうやってこう、行くっていう。一番、真っ直ぐに、力強く歌えるんだと思うんですけど。はい」


■ BEST ALBUM
『All Time Best Album THE FIGHTING MAN』

宮本 「その30周年30曲3000円っていうのは凄くキャッチーというか、まあ非常にわかりやすいなんか、テーマだなと思って。それは凄く、最終的には凄くいいなというふうに思いまして。“Roll & Spirit”、エレファントカシマシは、転がってきたっていうことを、少なくともファンの人は、この4人で転がってきたっていうイメージ、強いイメージを持ってくれてる、エレファントカシマシ。だから、そこに対してのそういうSpiritが、わかりやすいようなっていう“Roll & Spirit”っていうふうにして。だから、その中にはやっぱり、『俺の道』と『歴史』っていう曲。その前のニューヨークのね、小林さんとやった、色々、そういうこう、シングルヒットっていうよりは、そういう、想いが、はっきりするもの。で、“Mellow & Shout”って所には、『四月の風』や『悲しみの果て』以降のね、その結果ですよ。まあ僕らがその“Roll & Spirit”で、何か悩んだり、悪戦苦闘してるものっていうのは…の結果としての、『悲しみの果て』や『桜の花、舞い上がる道を』や、そういう曲がこう、1枚目に収め、まあ『リッスントゥザミュージック』もそうですけどもシングルじゃないけど。そういう、ものを、1つのその“Mellow & Shout”それは結果なんですよ。っていうふうにしてまあ、100点かどうかはちょっとこれは、難しいんですけど。自分なりに、そういうふうにして選びました。はい」 


■ LIVE with YOU

宮本 「粋なはからいっていうかまあやっぱ30周年でああいう会場で。しかもほんとにあの~熱心、熱心っていうかこう、あの~エレファントカシマシのことをほんとに、あの~…愛してくれている人たちとこうああいう形で、凄いお祝いみたいな感じで。曲も、実は凝った曲順とかにしたりとかしてまして。意外に話が上手いんです、私、本来。で、なかなかその、なんつうのかな、その、楽しくなっちゃって。なんか凄く大事に、1曲の説明とか…したりとかした。意外に昔のことも、こう、その場で、当意即妙と言うんですか パッとこう、やっぱりこう浮か、浮かぶもんで。まあ、上手にそれもなんか出来たかなと思ってんでまあ非常に、あの楽しい、みんなにとって楽しい時間だったんじゃないかっていうふうに」


■ 歌い続けてきた人生

宮本 「『ファイティングマン』は、なんで普遍的か。それは、10代の頃の、18の頃のやっぱ想いの、全て。やっぱり、若い時っていうのは、世の中出てないから、これからの夢やロマン。自分はどうなるかって不安の、直接的に一番真剣にまたその考えてる。世の中出る前に。出ちゃったあとはまた『四月の風』に、移行していくわけだし。そうすっと今度出て今度10代、30歳になったらやっぱり、『町を見下ろす丘』になるわけだし。今度40歳になったら『俺たちの明日』になるわけで。今度50目前になると、やっぱり、『RAINBOW』になってくる。そうすっと、今度60に向けての、自分っていうものをどうやって形にするかっていうことなんです。まあこれ、え、あの、口にすると偉そうに見えないかもしれない、まあ偉そうなんだけど。誰もが、悩む。そして誰もが、あの心に、あゆ、歩んで生きてる限りのそういうこう、当たり前の、悩みの、1つなんだけれども。はい」


■ 活動30周年の喜び

石森 「嬉しいです。で、まあ今こう、話し…た通り色々なことがあった、30年を、またこう、振り返る。こう…色々な想いが、こうなんか、ありますが、まあ、30周年迎えられて嬉しいなと、思っております」

高緑 「えーと みんなほんと、もう、温かく、迎えてくれて、ほんとにありがたいと思ってます。…はい」

冨永 「これからも、一生懸命 頑張って、続けていきたいと思います」

宮本 「なんつうんだろうな、応援し、祝ってくれる人たちに、やっぱその、改めてその曲と、あの~歌の、を届けたいっていうふうに思います。だから練習たくさん、練習をたくさんして…いい歌を、歌いたいと思います。はい」




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